カルチャー

「勉強」を哲学する。
教師の役割とは何かを問う。

「勉強の哲学 来るべきバカのために」 千葉雅也著 文藝春秋刊

新進気鋭の哲学者、立命館大学准教授の著書による勉強論である。著者の専門は、ジル・ドゥルーズを中心とするフランス現代思想であるが、マニアックになりがちな思想のエッセンスが、この本では平易に昇華されている。

本書の関心は「これまでの自分に新しい知識やスキルが付け加わる勉強」ではなく、それまでの自分を根本から喪失してしまうような「深い」勉強、「自己破壊としての勉強」にある。環境のコード、つまり私たちがなんとなく「こうするもんだ」と思っている空気に対して距離を取ることで、これまでとは別の自分に返信することへの誘いなのである。

何らかの環境に属しながら、同時にそこに距離を取るために、重要なのが「言語」である。例としてあげられるのは、言語の「玩具的」使用だ。その気になれば、私たちは「リンゴはクジラだ」「丸い四角形だ」などと、人前で意味をなさない発言をすることもできる。これらは、目的をもって意味を伝える「道具的」な言語使用とは異なり、たんにそういうためにいっている「玩具的」な言語使用である。ことばをことばそのものとして扱う「玩具的」な言語使用の割合を増やすことで、環境の外部=可能性の空間を開くことができるのではないか。著者はそう考える。

周りの「こうするもんだ」という環境に、上記の言語観をふまえて、そもそもの前提にツッコミを入れたり、話題をすり替えるボケをかましたりする。そうして別の可能性をたくさん考えるということが、「小賢しく口ばっかりになる」こと、「キモい人になる」ことである。

この段階は通る必要があるが、ただしここにとどまっていては無限に小賢しくなってしまう。それが行き着く先は、自分の真理をそのまま世界の真理とみなす「決断主義」である。更なる段階にうつるには、勉強をある程度のところで「まあこんなもんか」と有限化し、仮固定する必要があるのだ。その際に、一人ひとりの「享楽的こだわり」、要するに理由もなくこだわってしまう「バカな部分」を足場にすることがたいせつだとして、自らがどういう人生を送り、何にこだわってきたかを示す「欲望年表」の作成が勧められている。

これら独特の原理論をもとに、最後の第4章では、勉強を有限化し継続するための具体的な技術が紹介される。入門書との取り組み方、原典引用と自分の思考との区別、アプリ「Evernote」「アウトライナー」の使用など、独立して読んでも有益なノウハウが詰まっている。補足だが、教師についての言及はこうだ。

「教師は、まずは『このくらいでいい』という勉強の有限化をしてくれる存在である」。人間誰しも不完全で有限的な存在であるが、私たち教育者こそ、魅力ある有限化を生きたいと願う。

秋田光彦

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