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	<title>総合幼児教育研究会｜幼児教育の全国組織、約190の保育園・幼稚園が加盟</title>
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	<description>幼児教育の全国組織、約190の保育園・幼稚園が加盟</description>
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		<title>幼児教育の社会的プレゼンスを上げなくてはならない。</title>
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		<pubDate>Thu, 30 May 2013 02:49:36 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[生まれて間もない子どもの成育は、親だけでは万全ではない。家庭という内部と、幼稚園なり保育園という外部があって、はじめて発達の両翼が揃う。子は、生まれて以来慣れ親しんだ親元を離れて、園という世界に出向き、そこで生涯初めての [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>生まれて間もない子どもの成育は、親だけでは万全ではない。家庭という内部と、幼稚園なり保育園という外部があって、はじめて発達の両翼が揃う。子は、生まれて以来慣れ親しんだ親元を離れて、園という世界に出向き、そこで生涯初めての他者と出会う。他者とは、ここでは、同じクラスの仲間であり、そして園の先生である。恐らく、それは私たちが思っている以上に、子どもにとって衝撃的な出会いであるに違いない。</p>
<p>　だが、幼稚園の教師など、世間ではちょっと高級な子ども相手くらいの認識なのかもしれない。子育て支援ばかりがもてはやされる一方で、お受験や英語レッスンなど目が飛び出るほど高額な幼児教育もある。勘違いしてはいけないが、前者は託児、後者は市場であって、どちらも教育の本質とは異なる。だが、世間ではどれも大同小異の扱いであって、逆にいえば、幼児教育の論理や実践体系がそれだけまだ脆弱だからだろう。</p>
<p>　園生活は子どもにとってまことに衝撃な出会いであるにもかかわらず、実際の園に対する社会の認識は決して高くない。まして、子どもはこちらの事情など忖度してくれず、近頃は親、家庭とのコンタクトにも大きな時間を割かねばならない。園の先生も並はずれて多忙なのだ。</p>
<p>　学ぶべき論理や実践が貧しく、その上、学びに当てる時間も極端に乏しい。毎日の職務に追われ、その日一日を過ごすのに精一杯で、とても長期的なビジョンや自身の学習プランなど組み立てる機会などない。何とかしなくてはと思う園長は少なくないが、現実は、「子どもが好き」という彼女たち（先生の多くは若い女性たちだ）の熱意に頼んでいるというのが実情ではないか。</p>
<p>もっと、幼児教育の社会的プレゼンスを上げなくてはならない。もっと先生の待遇や環境を改善しなくてはならない。また、それにふさわしい高い知性と豊かな感性を、いつも学び続けなくてはならないと思う。それが難しいとされるのは、どこに問題があるのか、私にとって「少子化」以上に重大なことだ。</p>
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		<title>昨日と「違う」。家庭と「違う」。「違い」をよろこぶ。</title>
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		<pubDate>Mon, 13 May 2013 23:04:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>staff</dc:creator>
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		<description><![CDATA[わたしのパドマ幼稚園では、先週、新年度初の教育懇談が終わりました。保護者にとっても、担任にとっても初めての対面、いろいろと有意義な話ができたのではないでしょうか。
さて、その内容ですが、とくに入園、進級間もないこの頃は、 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>わたしのパドマ幼稚園では、先週、新年度初の教育懇談が終わりました。保護者にとっても、担任にとっても初めての対面、いろいろと有意義な話ができたのではないでしょうか。<br />
さて、その内容ですが、とくに入園、進級間もないこの頃は、「園でもしっかりやっているのかしら」と保護者の不安も小さくないようです。<br />
担任から園でのようす、クラスでの活発なようすをお伝えすると、「安心しました」と笑顔を見せられることも。最初の教育懇談は、いわば園と家庭の、ふたりの子どもが出会う場所なのかもしれません。</p>
<p>常々申し上げていることですが、子どもは、今、園と家庭のふたつの世界を行き交っています。<br />
家庭では存分に保護者の愛情を独占しますが、園は世界が異なります。集団、仲間、先生、規律やルール、そしてさまざまな活動。<br />
しかし、最年少の２歳児だって、登園間もない時間帯は泣く子もいますが、日課活動が始まると、ピタッと泣きやんで、活動に集中します。<br />
人間は本能や感情のまま生きているのではない。模範としての先生がいて、親しい仲間とともに、心地よい関係を醸し出せば、誰もが自ずと活動に参加していく本性を備えています。もっと動きたい、もっと話したい、もっと歌いたい、そんな「発達願望」が園生活では如実に発現されていくのです。<br />
また、園では、何でも自分の思い通りにはなりません。だが、だから一人ではできないことが、皆と力を合わせれば、できる。自分は集団の一員である、という自覚。<br />
その共同の喜びこそ、社会的存在である人間性の本当の目覚めなのだと思います。</p>
<p>幼児教育とは、家庭と園が両輪の輪となって、子どもを育むものです。このたびの教育懇談は、ご家庭でのお子さんのようす、園でのようす、をそれぞれ話しあい、その「違い」をむしろよろこんでいただきたいのです。「違い」は矛盾ではありません。いや、その「違い」こそ、わが子の成長の証左であり、また将来果実となる立派な種なのです。<br />
　<br />
昨日、泣いていた子どもが今日は泣かなかった。昨日、カードを見ているだけの子どもが、今日は初めて言葉を唱えた。食べられなかった給食を、口にすることができるようになった。<br />
園生活は、目には見えない小さな成長の連続です。昨日と「違う」、家庭とは「違う」、もうひとりのわが子がそこにはいます。<br />
その「違い」こそ、子どもの成長として受け止め、どうぞ今後の園生活にご期待ください。</p>
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		<title>子どもの当たり前を全身でほめる。</title>
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		<pubDate>Wed, 24 Apr 2013 01:49:07 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[入園児を迎え、順調に新年度がスタートしました。晴れ渡ったお空のように、気持ちのいい日々を過ごしています。それにしても入園児にとってはまったく新しい環境となって、期待に胸踊るというより、不安な気持ちのほうが大きかったのでは [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>入園児を迎え、順調に新年度がスタートしました。晴れ渡ったお空のように、気持ちのいい日々を過ごしています。それにしても入園児にとってはまったく新しい環境となって、期待に胸踊るというより、不安な気持ちのほうが大きかったのではないでしょうか。それでも、玄関でお母さんとバイバイをして、自分で廊下を踏みしめて教室へと歩んでいく子どもたちの姿は頼もしくもあります。がんばれ！と声をかけたくなります。</p>
<p>教室で真っ先に子どもを迎えるのは、担任の先生です。<br />
「おはよう！今日は泣かないで来てくれたんやね。先生、うれしい」<br />
「おはよう！今日は笑顔で来てくれたんやね。先生、うれしい」<br />
「おはよう！今日はしっかり一人で歩いてきたね、先生、うれしい」<br />
先生のほめ言葉は二つとして同じ内容がありません。日々子どものようすをよく観察している。そして、子どものある姿をそのまま、心から感嘆するようにほめています。<br />
子どもをほめて育てるたいせつさは、家庭も園も同じであって、ほめられた子どもの将来の社会適応力の高さについては、科学的にも実証されています。<br />
ですが、その際に心得ておきたいことがあります。それが、さっきの担任の先生のほめ言葉の通り、「子どもの事実」をそのままほめるということです。<br />
ほめる、ということは評価ではありません。上の学校に行けば、成績がよいからほめられることもあるでしょうが、幼児期の間、ほめる対象は普通のことです。「普通であることが立派だ」とほめるのです。朝、バスに乗る。園に着いて先生にご挨拶をする。廊下を歩く。自分で靴を脱ぐ。上着を脱ぐ…どれも普通のことですが、それを欠かさず毎日つとめていることが、すばらしいのです。</p>
<p>「何かができるから」ほめるのであれば、それは評価であると同時に期待になります。大人の期待は時として、子どもへのおだてになったり、押しつけになることもあります。 いまはただ事実をほめる、できれば昨日とは少しでも違うところを見つけてほめてあげれば十分なのです。そのためにも、たえず子どもに関心を払い、ほめるべき普通の長所を探し出すよう努めなければなりません。</p>
<p>人間は誰もが自分自身の存在価値を認めてほしいものです。子どもはほめられることで、「自分は愛されている」という強い自己肯定感につながります。まずは今日も元気に通って行ったことを、そして帰ってきたら、よく励んできたことを全身笑顔でほめてあげてほしいのです。</p>
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		<title>教育が目指す本当の幸福とは。</title>
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		<pubDate>Tue, 09 Apr 2013 04:59:19 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[新たな門出を祝う入園式シーズンを迎えました。見事に染まった桜の木の下で、きれいに着飾ったお父さん、お母さんと家族そろって、記念撮影。もし家族についての映画を編集するとしたら、今日の出来事は間違いなく幸福のワンシーンとして [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>新たな門出を祝う入園式シーズンを迎えました。見事に染まった桜の木の下で、きれいに着飾ったお父さん、お母さんと家族そろって、記念撮影。もし家族についての映画を編集するとしたら、今日の出来事は間違いなく幸福のワンシーンとして永久に記録されることでしょう。<br />
ところで家族が幸せであるということは、どういうことでしょうか。もちろん家族旅行や遊園地も、家族どうしの幸福を感じる時でしょう。それ相応の出費も必要となりますが、どの写真もみんな幸せそうに笑っている。もちろん、そういう家族イベントも結構なのですが、忘れてはならないのは、子どもが育つよろこびとは、お金の多寡とは別に、人間社会のだいじな公正性に基づいていなくてはならないということです。本当の教育はお金では意のままにならないのです。<br />
家族とは私的な共同体です。何事も親（大人）の価値観が勝りますから、当然わが子への信頼や愛情も濃密となります。一方それだけでは、子どもは人間として育たない。園という公的な共同体の中でもまれながら、社会への共感や信頼を育まなくてはなりません。子どもは、そういう私的な世界と公的な世界を行き交いながら、成長していくものだと思います。<br />
公正性とは「みんなにとって正しいこと」です。これは親が勝手に決めることはできない。園の理念や教育方針を引き当てながら、それぞれの学年やクラスに応じてていねいに編み出されていくものです。この公正性はやがて集団生活のルールとなり、目標となります。どこにも依怙贔屓（えこひいき）やわがままはない。だから、みんなが同じ目標に向かって、ともに切磋琢磨することができます。誰かが幸福であるが、誰かが不幸であってはならないのです。それが教育の目指す、本当の幸福のありようだと思います。<br />
私は園の先生に、「なぜあなた方は、『先生』と呼ばれるのか、考えてみてほしい」と尋ねることがあります。年齢も経験も若い人たちが、「先生」の敬称を授かるのは、あなたが、その公正性を具現するにふさわしいと思われているからだと。また、子どもにとって何が幸福なのか、そのことをたゆまず考え続ける人だからとも言います。<br />
よろこびの春。そして、家庭の子から社会の子へと歩み出す日。それは見た目は小さな一歩だけど、子どもにとって生涯最大の一歩であると思います。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>「かわいい」から、わが子を慈愛する。</title>
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		<pubDate>Thu, 07 Mar 2013 08:15:15 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[「Ｋｗａｉｉ」というのはキティやポケモンとともにいまや世界で通用する国際語だそうです。欧米では、「かわいい」「小さい」「幼い」は未だ完成に至らない未成熟なものとして劣等視する文化がありますが、日本はすでに「枕草子」の時代 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>「Ｋｗａｉｉ」というのはキティやポケモンとともにいまや世界で通用する国際語だそうです。欧米では、「かわいい」「小さい」「幼い」は未だ完成に至らない未成熟なものとして劣等視する文化がありますが、日本はすでに「枕草子」の時代から「なにもなにもちいさき物はみなうつくし」と「かわいい」を積極的に肯定しようとするまなざしが根強くありました。</p>
<p>古来日本の「かわいい」とはわが子へ向けられた慈愛ではなかったのでしょうか。小さき子どもを愛で、慈しむという行為そのものが、日本人の心性にある無条件のやさしさを表しています。「かわいい」の向こうには、だから私が支えなくては消えてしまいそうな儚いいのちへの、切実な愛おしさが横たわっています。幼きものを支え、助け、育む、という親のゆたかな情愛がそこから発露し、共同体社会においては、どの子も等しく愛でる日本人の子ども観をつくりあげてきたと思います。</p>
<p>「かわいい」に価値を見出し、そこに普遍的な美学を見出したのは日本人の先見だといわれます。子殺しや虐待、育児放棄といった事件が多発する殺伐とした現代、昔の「かわいい」美学を復活させることは難しいことかもしれません。が、「かわいい」がただ愛玩的なブーム語ではなく、親子の情愛を再び結びつける絆として作用するのなら、私はその感性をひそかに支持したくなりました。</p>
<p>ひな祭りの日に、ふとそんなことを感じました。</p>
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		<title>情操教育は、子どもにおもねる教育ではない。</title>
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		<pubDate>Mon, 25 Feb 2013 02:33:37 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[幼児教育の要は情操教育である、という説に反対はありません。情操教育とは、「暗記偏重の知識の教育に対して、感情や情緒を育み、創造的で、個性的なこころの働きを豊かにするための教育、道徳的な意識や価値観を養うための教育」ですか [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>幼児教育の要は情操教育である、という説に反対はありません。情操教育とは、「暗記偏重の知識の教育に対して、感情や情緒を育み、創造的で、個性的なこころの働きを豊かにするための教育、道徳的な意識や価値観を養うための教育」ですから、これこそ人間性の根っこの教育、総幼研の教育もそれに適合することに異存はありません。</p>
<p>しかし幼児期の情操教育といえば、一般に何を連想するでしょうか。有名な童話を残酷だからと、あるいは古語を使った唱歌が難しいだろうから、「子どもを思って」、改変されてきた例は枚挙に暇がありません。アニメのキャラクターを使った絵本が、情操教育の教材として推奨されるのが現実で、情操とは、わかりやすく、楽なものだから、それ故、奇妙な迎合主義に陥っていないでしょうか。少々曲がった言い方をすれば、現代の情操教育とは、大人が子どもへ干渉を繰り返しながらおもねった結果ということもできます。</p>
<p>かつて、新聞にこんな一文が載せられていました。『種をまくのが情操教育』という論評です。</p>
<p>「子供に理解できないことは教えないという風潮が強まった（中略）。正しいことは理屈抜きで正しい」と教える教育は既に見られなくなり、代わって子どもにおもねる教育が広がった。（中略）子どもが理解できようができまいが、いいものは無理にでも与えるのが大人の責務だ」また筆者は、高齢者や認知症の人たちが随分昔に習った唱歌をいつまでも愛唱することを挙げて、「歌が頭ではなく心に入っていくものだからだろう」とも述べています。</p>
<p>情操教育とは、けっして平易で楽なものを言うのではなく、難解であっても美しく心に沁みる、そしてその人の生涯を支える価値となるような本物の教育というべきものでしょう。</p>
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		<title>合奏がもたらす、協働することのよろこび</title>
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		<pubDate>Mon, 18 Feb 2013 06:57:05 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[　総幼研の園の先生へ。年度末の今頃はどこの園でも発表会シーズン。歌や器楽の合唱・合奏のコンサートが行われます。わたしのパドマ幼稚園でも先週、年に一度の音楽リズム発表会を開催、園児たちは学年ごとに日頃の活動の成果を熱演して [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　総幼研の園の先生へ。年度末の今頃はどこの園でも発表会シーズン。歌や器楽の合唱・合奏のコンサートが行われます。わたしのパドマ幼稚園でも先週、年に一度の音楽リズム発表会を開催、園児たちは学年ごとに日頃の活動の成果を熱演してくれました。<br />
　合奏にも、合唱にも「合う」という文字がつかわれますが、それはただ揃える、重ねる、という単純な意味ではありません。折り紙を重ねれば、下は上に隠れてしまいますが、合奏の子ども一人ひとりの存在感はかけがえのないものです。<br />
　そもそも合奏の起源は、中世ヨーロッパに求めることができます。地続きの大陸では、隣国どうしのいさかいや対立が絶えなかった。異なる民族、異なる言語、宗教では、互いを理解することが難しかったのですが、それを器楽の合奏が溶解していきます。一人ひとりは違っても、ともに同じハーモニーを奏でることでひとつになれる。それが、合奏がもたらした奇跡だったのです。<br />
　子どもも同じです。例えば100人の二人三脚を連想してみてください。ただ歩調を合わせるだけではない、姿勢を合わせ、呼吸を合わせ、心を合わせて、「みんな」という生き物をハーモナイズしているのです。ひとりはみんなのために生きている、そしてみんなはひとりのために生きている。今回の合唱、合奏にも、学年という「みんな」が見事に立ちあがっていたのではないでしょうか。<br />
　そして大事なことは、その「みんな」とは、クラスの友だちや先生との日々の暮らしの中から紡ぎだされたものであって、音楽の特訓があったからではけっしてないということ。入園、進級して一年のあいだ、一日一日育まれていった、これが園という集団の力、仲間とともに協働することのよろこびなのだ、と思います。</p>
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		<title>子どもの脳内活動を計測する。諏訪東京理科大学の篠原研究室と。</title>
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		<pubDate>Mon, 11 Feb 2013 23:31:00 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[総幼研の研究助成事業として、昨年の12月12、13両日、パドマ幼稚園で、幼児の脳内活動の計測実験が行われました。ご指導いただいた諏訪東京理科大学の篠原菊紀先生の言葉を借りると「幼稚園のクラス集団における計測は世界でもない [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>総幼研の研究助成事業として、昨年の12月12、13両日、パドマ幼稚園で、幼児の脳内活動の計測実験が行われました。ご指導いただいた諏訪東京理科大学の篠原菊紀先生の言葉を借りると「幼稚園のクラス集団における計測は世界でもないのではないか」とのこと、２日間、４学年のべ８回の計測が実施されました。もちろん、総幼研の教育活動には自負があります。約30年積み上げた日課活動の実践効果はどこよりも熟知しているつもりですが、科学の時代となれば、それを実証することも必要となりましょう。教師が経験で理解していることも、データで裏付けていくことで、さらに確信と安心が得られるもの。正直なところ、何の不安もなかったとはいいませんが、画期的な実験に臨みました。</p>
<p>同大学から持ち込まれたのが、NIRSという脳内計測機器。大型コピーくらいの精密機器なのですが、その性能に驚きました。頭に装着した特殊なギアの端子から、脳の血流状況を計ると、それが脳波のように画面に表れ、どの部位が活性化しているか、ほぼ瞬時に理解できるのです。時間軸がわかるので、ひとつひとつのタスクごとに活性度具合がわかります。どの学年でも、日課の音楽になると脳内活動のメリハリが顕著となるのが印象的でした。</p>
<p>気になる実験の結果について、詳細はまた別の機会に譲りますが、篠原先生からも「すばらしい」と太鼓判をいただきました。リズム、テンポ、くりかえし、集団の中から個が育つ、音読・素読の効果、右脳と左脳のバランスのとれた発達など、いずれも当園の教育実践の原理が実証されることとなりました。今後は篠原研究室でデータを解析して、詳細の報告書を仕上げていただきます。</p>
<p>それにしても、何と園児たちの果敢なことか。慣れない実験機器に囲まれながらも、ふだん通りに日課活動を立派にやり遂げた子どもに、心底感銘をおぼえました。篠原先生からも「子どもの実験でこれほど完璧に計測できたのは、驚き」とお褒めの言葉をいただきました。</p>
<p>なお、自律神経を調べるライフスコアも、２日間、のべ40人の子どもたちを計測しました。こちらの結果は心電図データを研究所がとりまとめ、後日報告を受けます。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>内なる輝きがあって、ゆたかな表現を発現する。</title>
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		<pubDate>Wed, 30 Jan 2013 07:37:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator>staff</dc:creator>
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		<description><![CDATA[３学期ともなると、１年間の集大成の行事を催される園も多いことでしょう。大規模な音楽発表会もその一つかもしれません。
音楽発表会のねらいは、それぞれの学年、それぞれの子どもにとってのゆたかな表現力でしょう。日々の保育の積み [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>３学期ともなると、１年間の集大成の行事を催される園も多いことでしょう。大規模な音楽発表会もその一つかもしれません。<br />
音楽発表会のねらいは、それぞれの学年、それぞれの子どもにとってのゆたかな表現力でしょう。日々の保育の積み重ねの晴れ舞台でもあるのですが、見誤ってはいけないのは、幼児教育は表現だけが成果目標ではないということです。私は、このゆたかな表現の下絵になっている子どもたちの「存在感」こそ、１年間の成果と呼ぶにふさわしいものだと思います。<br />
「存在感」とは、難しい言葉ですが、あるべき人があるべき所にあるべきようにいる、存在している、ということです。わかりやすくいえば、その子らしい「輝き」にあふれているということです。<br />
「あの人は輝いている」という言い方をしますが、「輝き」とは何かの能力として指すものではありません。「輝き」について試験があるわけでもない。時間を経れば誰にでも身につく、というものでもありません。それこそ毎日の園生活の積み重ね、、お友だちと、先生と、日々精励してきた賜物と、ご家庭でお父さん、お母さんやご家族のみなさんから届けてくださった親しみや暖かさ、そういったものをすべてエネルギーの源として「輝き」がにじみ出てくるのだと思います。<br />
子どもにも人生があります。大人同様に、よろこびやたのしみや、時にはつらい思いもあったかもしれない。しかし、そういうものすべてを自分の人格に織り込みながら、「いまここに生きている」という子ども一人ひとりの「輝き」「存在感」を形作ってきたと思います。<br />
とりわけ小さな子どもたちの表現というものは、小手先のテクニックで演じられるものではありません。子どもの内なる充実、「輝き」があって、それが外へと表出されることで、見事な歌や合奏となります。表現があるから輝いているというよりも、内なる「輝き」があって、自ずと表現へと発現されていくのです。<br />
それはまた、人生の途上にあって、しばしば「輝き」を見失いがちな私たち大人に、大きな気づきと励みを授けてくれていると思います。</p>
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		<title>やさしく、正しく。自分のことばを自分でコントロールする。</title>
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		<pubDate>Tue, 22 Jan 2013 04:56:59 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[園の先生方へ。先生方に学期始めに目標をたずねたら、自らのことばやことばがけについての抱負が少なくありません。
「話をするときは自分の中できちんと整理をしてから話す」
「話をする前に、相手の立場になって考えることを意識して [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>園の先生方へ。先生方に学期始めに目標をたずねたら、自らのことばやことばがけについての抱負が少なくありません。<br />
「話をするときは自分の中できちんと整理をしてから話す」<br />
「話をする前に、相手の立場になって考えることを意識していく」<br />
「〈問いかけ上手〉を意識して、多くの先生方と対話していく」<br />
確かに教師にとって、ことばはいのちと等価です。欠いてはならない心がけです。<br />
仏教でも昔からことばの暴力について戒めを説いてきました。十不善という「してはならない戒め」にも「殺すな」「盗むな」と並んで、ことばの悪行についても掲げられています。曰く「うそをつくな（妄語）」「二枚舌を使うな（両舌）」「荒々しいことばを使うな（悪口）」「筋の通らないことばをつかうな（綺語）」など、それだけことばが人間の人格や品位にかかわる重大な術であることを承知していたのでしょう。<br />
しかし、仏教が本当に伝えたいことは、ことばの禁止それ自体ではありません。たいせつなことは「すぐれた自己を完成させるために」ことばをいかに使うか、なのです。<br />
佐々木閑さんの好著「日々是修行」（ちくま新書）にはこう書かれています。<br />
「今現在、粗暴な心に支配されている人でも、やさしくて正しいことばを使うよう努力し続ければ、やがて自分の中に正しい心が生まれてくる」のだから、「自分のことばを自分でコントロールすることが、そのまま修行になる」<br />
テレビのワイドショーのような、右から左へ抜けるような軽いことばが横行しています。言ったもの勝ちの風潮は、ことばの前で熟慮する、再考する、という謙虚さを奪いつつあります。たいせつな相手に想いを寄せ、慎重にまた誠実にことばを紡ぎだす。ことば数よりも、たいせつなものはことばの知性なのです。</p>
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