イタリアでのヨーロッパ幼児教育学会に参加して

2017年8月30日〜9月1日

福山市立大学の弘田陽介先生が、ヨーロッパ幼児教育学会のカンファレンスにて、日本の伝統文化などの側面から見た総幼研教育について、ポスター発表された際の報告です。

そもそも総幼研の教育は世界の幼児教育・保育の文脈の中で、より理解が得られるのではないかという思いがありました。日本では自由保育と集団教育をいまでも対立させる傾向がありますが、海外ではそのような対立よりも子どものために最善を求めるため、何が必要かという議論が盛んになっております。

ヨーロッパ幼児教育学会では、保育・幼児教育実践に関するものを専門的に、または領域横断的に研究する発表が多く並びます。質的にも量的にも日本保育学会に近い印象を受けました。近年は、国際的に幼稚園と保育園で区分するのではなく、誕生時から初等教育就学前の教育とケアを一体化し、また子どもならびに保護者のケアも包括的に考えることが主流になっています。そのような一体的・包括的な教育とケアは、ECEC(Early Childhood Education and Care)ということばで総称されます。このようなECECを国際的な改革の中で実践的にかつ理論的に考え議論することが、このカンファレンスでは求められます。

私の発表タイトルは、「日本の伝統文化と仏教に由来する身体活動プログラムに焦点をあてた集団的幼児教育についての新しい方向性とエビデンスに基づく調査」でした。半年前のエントリーだったので、タイトルには発表したいこと全てが盛り込まれています。つまり総幼研の教育活動を日本の伝統文化と仏教の側面から捉え、その教育の実証的なエビデンスを通して国際的視点から、集団的幼児教育についての新しい方向性を示そうとしたものです。アメリカの研究者が、パドマ幼稚園の教育活動についても言及している本での分析を援用し紹介しました。そして、同園がこの3年間で行ってきた脳機能研究を具体的に示し、集団での教育の実践的な効用も提示いたしました。

1時間半程度の時間、10名程度のヨーロッパ、アメリカ、日本の研究者、実践者にそれぞれの立場や要望に応じた説明をしましたところ、総じて集団での日課活動を称賛してくれました。さらに脳機能研究については、実践の場でのきちんとしたエビデンスであると驚いてくれて、仏教由来の瞑想を教育に取り入れているアメリカの教育支援家も関心を寄せてくれました。近年、国際的にはマインドフルネス(無理やり邦訳すると「心の充足」でしょうか)というキーワードで瞑想は注目されていますが、それを早くからパドマ幼稚園の教育は取り入れていたというと大変興味をもってくれました。ポスター発表というのは学問的に厳しい議論というより、お互いの実践研究や理論を萌芽的に紹介するということが多いのですが、そのようなことを差し引いても、総幼研教育に対する大きな注目と称賛をいただいたような気がします。

また学会企画としてボローニャ近郊の保育・幼児教育施設の見学が行われ、私は世界的に有名なレッジョ・エミリア市に行きました。ご承知の方も多いでしょうが、第二次世界大戦後、貧しい庶民を支えると仕組みとして設立された公立の幼児教育施設は、L.マラグッツィの教育哲学と相まって、同市独自の取り組みとして世界的に注目されることになりました。その教育が生み出すものと生み出し方の両面に、マラグッツィの教育哲学が貫かれています。その教育哲学の詳細は、ここでは紹介しきれませんが、私自身はそれが子どもに何を伝えたいかということにかかわっていると考えます。

何を美しいものとして発見するかという問いかけと、その美しいものの発見の仕方の両方が、施設に散りばめられていました。植物の展示では、枯れた野菜や果物が並べられて提示されています。普段、私たちは幼児教育において、枯れたものを素材にすることはないように思われます。この枯れには様々なテーマが含まれますが、ここには「世界は美しい。どんなものの中にも美は存在する」というメッセージが見いだせると思います。これを子どもたちとの共同活動の中でどうやって発見するか、そこにレッジョ・エミリアの教育のエッセンスがあります。

改めて考えますと、このイタリアでの学会カンファレンスおよび、レッジョ・エミリアの施設見学で得たものは、教育を貫く哲学といったものかもしれません。私自身は、博士論文をドイツのカントの哲学と教育学・人間学の接続というテーマで書いています。そのような意味では教育哲学者と自称しても差し支えないのですが、日本の教育現場で哲学ということばや哲学概念を持ち出すと、ちょっと気恥ずかしいという感じがしていました。これは現場の先生方の問題ではなく、私自身の自信のなさに由来するのでしょう。「小難しいことをいっても伝わらないんじゃないか」とか「この話は現場には関係ないのではないか」とか自分で勝手に考えて、そのような哲学を封じて発言していたように思います。

しかし、この旅では、哲学が生きている現場をいくつも見つけることができました。ここでの哲学とは難解な理論や書物を持ち出して話すことではありません。お互いの知っていることを持ち寄って掘り下げていくこと、共通の見解にいたるプロセスを互いに見つけていくこと、見つけたものについてそれぞれの見解をきちんと述べること。このようなことが哲学の作法だと思うのです。そして、これは大人同士でも、大人と子どもとのかかわりでもできることなのだと思います。価値観は人によってもちろん違います。用いることばは人によって違いますし、その定義も実は様々です。ですけど、お互いを斟酌して、同意だけを求めるのではなく、きちんとことばを用いて話すこと、話して、その中にそこで見つけた美しさを発見し、お互いに観賞し合うこと。これはイタリアで改めて見つけたことであり、また日本でも可能なことだと思います。

元来、哲学は古代ギリシャに端を発し、ソクラテスの産婆術に象徴されるようにことばのやり取りです。日本人は論理的なことばのやり取りが今日でも苦手で、未だに民主主義も根付いていないということはよく指摘されています。ですが、何かを議論して決定する定式的な作法ということではなく、お互いの生活の価値観を確認し、人と共に生きるためのことばの使用として哲学は必要になります。新しく告示された小学校学習指導要領では、「考え議論する」が重要なキーワードとなっています。それは西洋だけに特有の人間活動ではありません。私たちも生活の中で、また子どもとのかかわりの中で必要な力だと思います。

くわえていいますと、総幼研の教育はこのようなことばの力を信じた教育なのだと思います。総幼研のことばや哲学の営みはもっと世界に発信されてよいと考えています。

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