聞き手に届ける
「こえ」の響き、
「ことば」の力

2018年12月公開

落語家・桂文我さんに聞く

全国各地で、年間約300回の落語会「桂文我独演会」「桂文我の会」を精力的に開催されている、桂文我さん。ご自身が幼少時代に落語に触れ、落語家を志した経験からはじめられた親子を対象にした落語会「おやこ寄席」は、1992年から今日に至るまで、大変好評を博しています。

また、落語の歴史に精通し、「古事記」を落語に纏めるなど、斬新かつ熱心な落語研究家でもあります。落語だけに止まらず、三味線、笛、太鼓、鼓など、落語の出囃子には欠かせない和楽器もこなされ、絵本や紙芝居なども手掛けるという、いくつもの顔をお持ちになって、ご活躍されています。

桂文我さんの正月3公演のご案内はこちら
2019年1月5日 知恩院・和順会館 和順ホールにて
新春 桂文我のおやこ寄席 対象: 小学生以上
桂文我独演会 対象: 中学生以上
邦楽と上方落語を楽しむ会 対象: 中学生以上

今回は、伝統芸の落語から生まれる「ことば」の力、「こえ」の響きを中心に、お話を伺いました。

まずは、落語家として、「ことば」について、どのようなお考えをお持ちですか?

「ことば」は、古語から現代語に至るまで、蓄積され、変化しながら、熟成されてきたように思います。それだけに、現代のことばも、未来へ向けての「おとりつぎ」だと思っているのです。50年後には、今とは違うことばを使っているかもしれません。「ことだま」というと、神掛かっていて、多少オーバーになりますが、脈々と受け継がれたことばには、力があります。

何百年も伝わってきた芸能のことばには、多くの人々の智慧が集積されていると思いますし、それは尊いものだと感じています。

古典落語を現代のことばに変えて演じるケースもありますが、それは賛成しかねます。その時代に使われていたことばを信じることは、とてもたいせつなことだと考えているからです。但し、ことばを盲目的に信じるのではなく、古語と現代語の最大公約数は、どこにあるのかを、常に探しています。

ー そこが古典落語を演じられる上での、文我さんのこだわりでしょうか?

まず、意味を考え、語源も調べます。そこには、古語から未来への「おとりつぎ」になるだろうという思いがあるからです。但し、私は落語家だけに、最大公約数を考える際、意味や語源とは別の面白いことばや、音や響きが気になります。

古典といえば、『古事記』があります。『古事記』は、稗田阿礼(ひえだのあれ)が口伝したものを、太安万呂(おおのやすまろ)が記した、日本最古の歴史書であり、文学書といえましょう。編纂された後、むずかしくて、解読がむずかしかったのを、本居宣長は音で読んだのです。当時の日本人は、面白い音を使っていたのではないでしょうか。

ー 『古事記』を落語にされたのも、そういう思いがあったからでしょうか?

私が生まれ育ったのは三重県松阪市で、本居宣長の生まれた町です。古事記編纂1300年の時、出雲や淡路島では盛り上がっていたのですが、松阪市は本居宣長記念館がイベントをするぐらいで、行政の動きが鈍かったので、私が『古事記』の落語会を催せば、イベントがひとつ増えると思い、はじめました。

『古事記』は神様のお話ですが、神様も殺し合い、恨み合いをする所が面白い。人間以上に人間臭い神様が数多く登場するという、無茶苦茶な世界です。私は、そこに魅力を感じ、落語に通じると考えています。

落語に、聖人君子の登場は皆無に近いといえましょう。人間の愚かしさや失敗という、一般的にはマイナスの部分を取り上げていますが、それは人間の可愛らしさと思います。

ー 落語では、上(かみ)と下(しも)で、何人もの人物を演じられます。澱みなく、話が流れていくことに感心させられますが、「こえ」について、意識されていることはありますか?

落語も稽古は肝心で、昔から伝わっている「型」を学ぶことも必要です。但し、「型」ばかりに縛られていると、おおらかに落語を演じられなくなります。私は発声練習をしたことがありませんし、滑舌がよいことが、落語の素晴らしさに直結しているともいい切れません。

何故なら、日常会話が、落語の基本になっているからです。日常生活では、みんなが滑舌よくしゃべっているという訳ではなく、ボソボソと呟いたり、舌足らずであったり、澱んでいたりするのが、日常会話なのです。

ー しかし、文我さんの落語は滑舌よく、はっきり聞こえますよね。

私の場合、滑舌よく聞こえてるのかも知れません。それが落語家の芸ですが、誰でも出来ないことはないでしょう。ポイントを押さえて、話の流れを意識しながら、息継ぎのタイミングもたいせつだけに、観客にわからないように、ブレスをするのも肝心です。

このような積み重ねがあってこそ、滑舌よく聞こえるようになるのではないでしょうか。

ー やはり、センスが必要になってくるのでしょうか?

センスは皆が1でなく、その人特有の0.1を持っていると思います。毎日、1.1を掛け続ける作業で、1.1が1.2になり、10になり、何千、何万になる。その作業を毎日できるか、信じられるかだと思います。

イメージコントロールができた結果、センスや能力という、天からの贈り物をいただけるのではないでしょうか。どんな人でも、表現やアピールが出来ます。何かを表現し続けることで、何年後、何十年後に振り返ってみると、改めて、よかったと感じるように思います。

1992年から、桂文我さんは「おやこ寄席」を全国で開催されていますが、はじめられたキッカケはあったのでしょうか?

土台として、私が子どもの頃、落語が好きになり、落語家を志したということがあります。初めて落語を聞いたのは幼稚園の頃でしたが、全く面白いとは思いませんでした。なぜなら、意味がわからないからです。しかし、小学生になって、たまたまラジオで落語を聞いたら、これが面白い。ライブ録音だったので、観客の笑い声が聞こえてきて、それが私の笑いのポイントと同じだったのです。

落語が好きになる前は、浪曲を聞いていました。毎朝、祖母がラジオで浪曲を聞いてい たのです。幼い私は意味がわからないし、面白くないので、祖母に「朝早くから、ラジオを聞くのは止めて」と頼みました。すると、祖母は「これは面白いものやから、黙って聞いてたら、わかる!」といいました。我慢して聞いている内、浪曲師の声やリズム、三味線の快さがわかるようになってきたのです。

ー 総幼研でいう「動きと、ことばと、リズム」を、実体験していますね。

「おやこ寄席」は、三重県四日市の子どもの本の専門店・メリーゴーランドの店主、増田喜昭氏に、「親子で楽しめる落語を演りませんか?」と勧められたことからはじまりました。ところが、これが難しい。子どもは興味の無いことに対して、集中力が切れてしまいます。過去にも、先輩方が失敗している姿を見てきました。

増田氏から「まず、親子で楽しめる落語のテキストを作ってみては?」という提案があったので、4つのテキストを作り、約100人の親子の前で演じてみると、ウケも良く、かなりの手応えがありました。これが、現在の「おやこ寄席」の原点です。

ー 「おやこ寄席」では、上演に際しての環境も意識されているそうですね。

まず、親子の人数を最大300人にして、親と子どもを分けました。子どもは前に、親は後ろに座ってもらうことにしたのです。学校公演では、体育館での上演も止めることにしています。体育館は体育をする場所なので、上演回数を増やしてもいいから、図書室や視聴覚教室に舞台を設えて、上演することにしています。

実際、1年生から6年生まで、一日6回上演したこともあります。「1回の方が、楽ではないですか?」と仰る先生も居られますが、落語を楽しめない環境で上演して、落語を嫌いになる子どもを増やすのは如何なものかと思います。

「おやこ寄席」は、未就学の子どもはお断りしています。私が幼稚園の頃、落語の面白さが理解できなかったことと、全校集会を経験していないことが、その理由です。それだけに、幼稚園、保育園から依頼があった場合、落語の紙芝居を上演します。

ー 文我さんのように、幼稚園の頃の経験が、後に花開く場合もあるのでしょうね。

幼い頃の「?」が氷解する瞬間は、とても快感です。但し、赤ん坊の口に、無理やり、ステーキを放り込むのは如何かと思います。ミルクから始まり、おかゆになり、ごはんになり、魚や肉も食べるようになる。大人が美味しいと思うステーキも、赤ん坊の口に放り込むのは大迷惑の上、消化不良を起こしますし、喉にも詰まります。

落語は、300年以上の年月を経て、熟成された、大人が楽しめる話芸です。いきなり、子どもに聞かせても楽しい訳がないでしょう。過去の失敗は、そこが大きいと思います。落語は伝統芸だけに、「子どもに教え込む」という意識も強かったようです。

上から目線は、子どもに相応しくないと思いますし、絵本の「読み聞かせ」といういい方にも違和感を感じます。

ー 文我さんの「おやこ寄席」は、どのような所を大切に考えていますか?

最初の5分間で、子どもたちに「親戚より面白いおじさん」と思ってもらわなければなりません。飛行機は急に浮き上がるのではなく、滑走路を走っている間に、自然にフッと浮き上がります。それと同じで、子どもの受け入れ態勢が十分になるまで、落語を演じるのは待ちます。

最初は、子どもたちとお友達になるだけで、落語を演じるための切り替えの瞬間の見極めには、とても気を遣います。子どもたちとの信頼関係ができあがることが重要で、何かを教えるという姿勢ではなく、おじさんが子どもたちと一緒に遊びながら、ある時からスーパーマンに変身する。

中には、テンションの高い子どもも居ますが、「静かに!」ということはありません。その子の話を聞いたりして、自然におとなしくなる時を待ちますし、とてもテンションの高い子は、隣りの子が止めます。大人が諭すより、子ども同士の方が効果があるのです。

子どもたちに、落語は聞いて楽しむ芸だということを、自然にわかってもらうことが肝心だと思います。

最後に、総幼研の先生方に、メッセージをいただけませんか。

声のトーン、響きなどが、心に伝わる肝心な要素になると思います。私の師匠・桂枝雀に「智慧のある声を出しなさい」といわれました。「それは、どうしたら出ますか?」と聞いたところ、「自分で考えなさい」。

不自然さのない、作っていない声なのではないでしょうか。子どもにとっても、不自然は違和感なのです。偽りの無い、自然な声で接するのが、子どもたちのよりよい成長に繋がるのではないかと思います。

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