「共助の心」をはぐくむ 園教育の可能性。

■ソーシャルキャピタル
毎年冬から春にかけて、大きな災禍の記憶が蘇ります。1月には阪神淡路、3月には東日本と、誰もが忘れることのできない大震災の経験です。被害のあるなしにかかわりなく、「心の被災」は多くの日本人に悲しみや痛みを及ぼしました。
その頃から、防災・減災と共に「自助」「共助」ということがいわれるようになりました。自助とは、自分や家族の身は自分(家族)で守ることであり、共助とは、ご近所や地域の方々と助け合うということです。困っている人に無関心ではいられない。お互いが協力し合う。阪神淡路大震災では、実際に救命された大半のケースが、近隣の人による救出活動によるものでした。
「共助の心」とは、大震災のような緊急的な場面になって突然発揮されるものではありません。同じ地域の隣人どうし、ふだんからのおつきあいが積み重なって、醸成されていきます。あってあたり前なのではなく、日常レベルの共助の運用が問われています。
こうした他者への信頼、社交や交流、社会参加などを、経済学の用語で、ソーシャルキャピタル(社会関係資本)といいますが、これが豊かなほど人々の協調行動は活発になるといわれています。個々人の健康や幸福感、経済活動にも好影響も与えます。「共助」とは、社会安定を測るバロメーターなのです。

■集団と協同と、よろこび
さて、この「共助」のそもそもの原理、原意識みたいなものはどこから芽生えるのでしょうか。私は、園教育における3つの可能性を感じます。
まず、その土壌にあたる「集団」の可能性です。これまでの少子化に加えて、コロナの時代では出会いや集いがいっそうむずかしい時代になりました。地域社会もまた距離をとって、リモートで運営されるかもしれない。人と人が集まって、かかわりあうことの意味は、「共助」をはぐくむ前提として欠かせません。
次に「協同」です。ただ群れるだけでなく、集団がひとつの目的を共有して力を合わせてはげんでいくこと。その過程で、互いを助け合い、協力する「共助」の芽が生まれます。コロナの感染対策もそうですが、自分だけが安全であればよいのではなく、みんなが「感染させない」と思いやる心がたいせつです。
そして、「よろこび」。人はひとりで生きているわけではありません。集団も協同も、ともに生きるよろこびがあってこそです。共助とはいわば共生社会のレッスンであり、毎日の園生活や保育活動の積み重ねによって涵養されていくのではないでしょうか。
コロナという見えない災害はまだまだ続きそうですが、私たちが担う園教育には、これからのアフターコロナを生き抜く子どもたちの「共助の心」をはぐくむ大事な役割があることを忘れてはならないと思うのです。

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