なぜアスリートは雄叫びをあげるのか。声と身体の関係。

パドマ幼稚園の名物のひとつが、毎朝行なう体育ローテーションだ。園庭では、年長・年中児が朝9時から取り組む。指導するのはこの道15年のベテラン教師だが、彼のスタイルに注目すべきものがある。それは体操ならぬ、その身体から発する「声」の迫力だ。
幼児が相手だから、言葉自体に意味があるわけではない。譬えは適切でないが、猿が仲間を誘うような、そんな「野生の声」である。あえて文字にすると、「走るぞ。うぉほほほ!」「そーら、いくぞぉ。おおお!」というような、掛け声とか雄叫びの類…それを…子どもはたいそう喜ぶ。敏感に反応する。声が、場の空気を高めるような感覚だ。
私は幼児体育には門外漢なのだが、この男性教員の野生の「声」と子どもの身体運動には何らかの関係があると、直感的に考えてきた。音声言語は、音調や表情、身ぶりなどと関連するが、あらゆる文明において文字言語に先行する基本語なのである。それは教室の中だけでの話ではない。
故・竹内敏晴は「声が生まれる」という本の中で、声と声が出会った感動を次のように書いている。
「〈じかに〉、共に生きている、鮮やかに〈あなた〉が立っていて、〈わたし〉が発する声を共に生き、動き、と共に、〈わたし〉もまっすぐに向かい合ったまま反応する、というより、むしろ一つに生きている」
これになぞらえて言えば、体育ローテーションは、声によって「一つに生きている」場なのではないか。

一流のアスリートが、掛け声や雄叫びをあげるには、「声」と脳との関連がある、と興味深い話を聞いた。意識の中枢である大脳は、意欲も向上させるが、逆に邪念や雑念も作用させる。緊張とか強迫とか不安とか…一流選手といえど、それ故、思うように能力を発揮させない要因になることもあるそうだ。
だが、 「声」は耳から直接小脳に入る。小脳は、大脳と違って動きを自動化させるはたらきがあるので、プレイヤーに意識とか思考を求めない。つまり、無心で無欲な状態をつくることができる。練習で培った型を、不安や緊張を伴わず、自動的に発揮するには、「声」のスイッチが必要なのだ、という。以上はNHKのテレビで見たのだが、番組では跳び箱を跳べなかった小学生が、指導員の掛け声ひとつで楽々跳べるようになった紹介もあった。「声」(テレビではリズムと表現していたが)は、眠れる能力を引き出すのである。

このように意味のコミュニケーション以前の「声」は、すぐれて身体的である。以前ここにも書いたが、子どもたちの音読や素読も同じだ。黙って本を読む「黙読」とは、じつは近代に発明されたコミュニケーションであって、大正時代あたりから定着した慣行に過ぎない。今も幼児は、覚えたての文字を音読するし、母親も枕元で、絵本を「読み聞かせ」るのである。
そう考えると、私たちは意味や記号にどっぷり浸かってしまって、「声」の潜在力の半分も活かしていないのだろう。また身体も、発育や健康に管理されてしまい、本来の応答力を失っているのかもしれない。
「声」と身体の関係を、現代に解くとしたら、その鍵は案外幼稚園にあるのではないか。

総幼研教育が描き出すべき指標がそこにある。

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